戦前 戦中の淡之須町会

淡之須町会では歴史ある町会の歩みを今のうちに編纂し後世に意義ある史料として活かしていきたいと考えています。
そこで淡之須町会に関する昔の話を先輩の方々にお話し頂き文書化永久保存し町会の歴史認識の共有化を進めていきたいと思います。
2008年10月22日 最初の淡之須町会歴史編纂委員会が開催され以下にその研究成果を公開いたします。


                町会歴史編纂委員の皆様
                堀切進     古川恒雄
                小沢栄之丞  藤澤喜一
                今井治     佐々木啓之
                小澤俊治   和光作義
                安井冨二男  昼間義之
                鈴木敬

町会は日中戦争の頃(1937年 昭和12年)から日本各地で組織され始め、太平洋戦争の戦時下に大政翼賛会の最末端組織として1940年に市には「町内会」、町村には「部落会」が国によって整備されたのが起源であるとされています、そして戦時下には内部に「隣組」がありました。

昭和7年 淡之須町会設立  鈴木平蔵会長
      淡之須町会主導で葛飾小学校の建設



昭和9年5月31日 町会主導の予防接種票

 現存する最も古い町会史料 (古川恒雄氏提供)


昭和13年2月11日 
葛飾小学校御真影奉安殿竣工 中央校長


昭和13年6月1日 午前5時半  帰着午後5時 
国威宣揚祈願 出発式 淡之須神社境内

靖国神社前


出征軍人慰問袋募集


愛国婦人会葛飾支部


昭和13年6月 水害
方面事務所前 淡之須青年団 救護奉仕


町会合併式並びに出征軍人式軍最久祈願祭 
町会の戦時体制化 昭和13年10月9日  
淡之須神社境内 

昭和14年(1939)3月28日、国民精神総動員委員会が管制公布、翌年国民生活新体制要綱が発表され「ぜいたく全廃」運動が開始、そしてこの運動のために「隣組」が組織されました。
これは「向こう三軒両隣」の6軒を一単位として組織され、戦争追行のための国民総動員の末端組織になりました。
政府の方針伝達、日常生活物資の配給、公債消化、貯蓄奨励、防空防火、防謀などの任務がすべて隣組の連帯責任で行われるようになりました。
淡之須町会も隣組として組織変更され終戦まで戦争追行組織として活動しました。

応召遺族慰安学芸会 葛飾小学校講堂


青年団員徒歩行軍 鎌倉にて   昭和14年


淡之須町会 防衛本部前




葛飾小学校 校舎入口と遠足の様子



終戦に伴い日本国憲法の施行1947年5月3日いわゆるポツダム政令15号[1]が公布され、「町内会」、「部落会」、それらの「連合会」等の結成が禁止されることになった。
これにより戦前の淡之須町会の歴史に一端幕が下ろされ以降新たな性格の組織として再出発いたします。

戦後の淡之須町会はサンフランシスコ講和条約の発効に伴いその半年後の1952年10月25日に5年半ぶりに禁止が解かれると、自治組織として再組織化されるようになり、今日まで続いている。
ただし、当該解禁以降、一部の省の訓令には事実上の存在として「町内会」の文言の登場例が数例あるものの、国民一般への法的拘束力を有する法律・政令・府省令には町内会に関する規定が全くなく、行政組織(国及び地方自治体)とは法的に無関係な存在となっている。