青戸 淡之須の歴史

「元禄拾年丑十二月 亥御見地御水帖写 淡之須村伝兵衛 墨付三枚」

平成六年 青戸二丁目の佐々木茂男氏宅より発見された古文書。
「元禄拾年丑十二月 亥御見地御水帖写 淡之須村伝兵衛 墨付三枚」
淡之須村が元禄時代(1688〜1703)の当地の立石村より分離した事は葛飾区史料その他で判明していましたが実際に検地帖を確認したのは平成六年の佐々木氏による発見が初めてでした。
平成十年葛飾区の有形登録文化財に指定されております。

淡之須村は現在の青戸一丁目一番より二十三番までと青戸二丁目一番三番、青戸三丁目四十番四十一番ではないかと推測され現在は淡之須町会の名で残っています。
淡之須村が立石村から独立するにあたり村の場所の特定につながるような目印を村名にする必要があったと思われます、この目印になったのが福森稲荷神社前の土手より確認できる中川の中州(中須)ではないでしょうか。
立石村が古墳の立石を村名にしたようにその地に特徴的な地理的条件を村名にすることはよくあることだと思われます。
福森稲荷神社前の中州にて古の昔、粟(あわ)などの栽培を副業的に行っていたのがこの地の命名につながった、すなわち粟などを栽培している中州を場所の目印にしている村が淡之須村ということです。
考古学的な発掘調査により中州より粟栽培の遺構が発見されれば有意義であると思います、また元禄時代には川の水位が現在より低かったことが予想され中州も現在より大きな物だったのではないでしょうか。
「葛西志」によればこの「淡之須村は立石村の北に並びて、是も中川にそへり、またそれより西へ離れて、青戸中原二村の間にも淡之須村に属する耕地少しばかりあり、村名は川に沿えたる地なれば、安房国などいう類にして、寄洲という義なるべしと、いひ伝えり」とあります。


現存する最古の淡之須の表記




検地

検地(けんち)とは中世から近世にかけて行われた田畑の面積と収量の調査のことである。現在の課税台帳整備に当たるもの。
概要
(倹地と書かれる場合もある) 律令制下、全ての農地の所有権は国家が持っていることになっていた。しかし、平安時代になると公地公民は崩れ、荘園と呼ばれる私有地の存在が認められるようになる。そのため、各地は国府が管理する国衙領と私有地である荘園にほぼ二分される。国衙領については国府が大田文と呼ばれる台帳を作成し、農地の面積や収量を把握し、徴税の基礎資料としていた。しかし、荘園に関しては、課税のための調査も課税もできない。この状態は鎌倉・室町時代になっても変わらなかった。室町・戦国の混乱時代、農業生産高は爆発的に増加したが、各地にモザイクのように存在する割拠勢力はそれぞれ消長を繰り返し、また支配下にも多くの自立領主がいるため、自領の実質総農業生産高を把握するのも困難であった。
しかし、戦乱を経て地方に荘園や国衙領という枠を超えた一円に支配権を確立する戦国大名が成長する。彼らは、自分の支配地域における課税を行うための資料として土地の調査を行った。これが検地である。しかし、多くの戦国大名は全領地に検地を行うことができなかった。多くは新規に獲得した領地に対して行っている。それは家臣団や有力一族の抵抗が大きいからである。
急速に勢力を拡大した織田信長もその領国内でこの検地を行い、農業生産高とそれに基づく課税台帳の整備に力を入れた。信長死後その政権を引き継いだ豊臣秀吉は初めて全国的に検地(太閤検地)を実施した。しかし、この検地も実際に豊臣氏の家臣が直接行ったものではなく、多くは大名の自己申告制であった。これにより全国的に石高制が認知されるようになる。また、太閤検地が画期的なのは、土地の所有者ではなく、耕作者を調査し、耕作者に課税したことである。これにより、土地に対して重層的にあった中世的な中間権利である様々な職が否定され、耕作者は直接領主に納税することとなり、農村にいた中間搾取者としての武士はほぼ一掃されることとなった。
続く江戸時代は、農業技術の進歩と新田開発の進展、幕府や藩の財政悪化などによりたびたび検地が行われた。検地により農民への課税は重くなる傾向が強いため、農民も一揆などでそれを阻止しようと試みることもあった。
明治政府は、農業収入に課税する年貢制ではなく、全土地に課税する地租を導入し、検地は行わなくなった。

検地帳
検地帳(けんちちょう)とは、検地の結果を村単位で集計して取りまとめた帳簿のこと水帳(みずちょう)ともいう。
家数人馬改帳ともに封建領主が土地・人民を支配するための基本台帳としての役目を果たした。
概要
初期の検地では統一した書式による検地帳が存在しなかった(例えば、村切の未確立の問題など)。豊臣政権(太閤検地)では文禄期以後、江戸幕府では寛文・延宝検地以後に統一した書式が定められた。また、統一以前の時期にはまだ政権による地方支配が完成されておらず、実際の検地内容を反映しているか問題が残されている場合がある。封建領主側は検地帳に記された村の石高の集計(村高)を元にして年貢・諸役を賦課した(村請)。
検地の実施後、その結果を元にしてそれぞれの村の石盛を決定し、村内の田畑・屋敷地について、一筆ごとに字名(所在地の地名)・地目(種類)・品位(上・中・下・下々からなる品質)・面積・分米(石高)・名請人を記載していく。必要に応じて屋敷地には居住者の身分(村役人・僧侶・神官・後家など一般農民と年貢・諸役の負担に違いが生じる人々)や山林や沼沢・荒地なども記載する。更に村内の個々の土地についての記述を終えた後に村全体の地目・品位ごとの段別集計を行った後に村高を記載する。最後に検地を行った地域全体の段別総計と石高合計を記す。同一内容のものを2冊作成した後、検地役人と村役人がそれぞれに連署して全ての綴じ目に奉行の割印を押印した上で領主側と村方に1冊ずつ保管した。名請人の記載方法には大きく分けて2つあり、単純に年貢・諸役の負担義務者を記したものと「○分(○家抱)・×作」と併記して負担義務者と実際の耕作者に分けて記したものがある。名請人として記載された者は土地の保有者として認められる一方でその土地に緊縛されることになる。後者は実際の耕作者名を記載することで所有するだけで耕作を行わない地主層への牽制の意味も含まれていた。これは反対に当時の村内部で重層的な階層が形成されていたことを示していると考えることも可能である。
参考文献
後藤陽一「検地帳」(『国史大辞典 6』(吉川弘文館、1985年)
葉山禎作「検地帳」(『日本史大事典 2』(平凡社、1993年)

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                              現頭首 佐々木弘明氏


その他史料



新編武蔵風土記稿に掲載されている青戸周辺の図、図には描かれていませんが向って左側に中川が位置します。